何もないと刺激を求め
刺激がありすぎると癒しを求めます。
癒しばかりだと退屈し
今度は刺激を求めはじめます。
一人でいる方が楽だと想いながら
誰かと何かを共有・共感することを求めます。
共有・共感ばかりだとめんどくさくなって
「本当にそうなの?」と人と違うことや反発を求めます。
周りが感動しているから
感動しなきゃいけないんだと合わせます。
合わせすぎて
逆に疲れる自分もおかしいのかと想い始めます。
周りが泣いているから
泣きゃなきゃいけないんだと合わせます。
合わせすぎて
逆に疲れる自分もおかしいのかと想い始めます。
泣けないことがおかしいことではありません。
そこが自分にとって、泣けるポイントではないだけです。
みんなが泣けるから、自分も泣けるわけではありません。
みんなが感動しているから、自分も感動できるわけではありません。
そして、自分がある一定のところを卒業すれば
泣いたり感動したりすることは減っていきます。
それは、感受性が減ったというわけではありません。
冷たい人間になったというわけではありません。
自分が成長して、受け止められる器が広くなったということです。
目に見えて分かりやすいリアクションがないからと
だから心が冷たいというわけではないのです。
泣かせてくれる人が、いつも一緒に泣いていたら困りませんか?
たとえば、相談に乗ってもらおうとした住職さんや神主さんが
いつも感動して泣いていたらおかしくないですか?
そこに、でんと構えていてほしいと想いませんか?
いつも感動がある世界にいると
それが日常になります。
いつも愛がある世界にいると
それが日常になります。
感動や愛が日常の世界にあって
だからと泣いてばかりいたら、それこそ疲れて日常生活が送れなくなります。
感動も泣くことも、とても大切で必要なことです。
周りは関係なく、泣きたいときは泣いたらいいし
感動したいときは感動したらいいのです。
あなたは、何もおかしくありません。
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